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R econnection​  認定プラクティショナー 
★ReconnectiveHearing-FoundationalPractittioner
(リコネクティヴ・ヒーリング・ファンデーショナル・プラクティショナー)
★Reconnection-CertifiedPractitioner
リコネクション・サーティファイドプラクティショナー)

生まれは新潟市、信濃川の近くで高校3年生まで育ちました。

高校の倫理の時間、自分の人生を描くという授業の中で私が描いた将来の自分、それはどんなものだったかというと、とにか平々凡々はいやだ、いつも非凡でありたい。と、なんとも生意気な答えを出して、先生には「平凡の中の​非凡という幸せもありますよ。」と諭されたのを覚えています。

「平凡の中の非凡?そんなのいやだ!」と息巻いていました。

その答えはそっくりそれからの私の人生そのままとなっていったのでした。

東京の短大を卒業して、普通に結婚して3人の女の子に恵まれました。

非凡な生活は少しずついろいろな形になって現れました。

主人が会社を辞め独立、事業を始めてから徐々に生活は変貌していきました。

事業の失敗、倒産、夜逃げ、不倫と、人生はあがったり下がったり、なべ底を何度舐めたことか。

実家に迷惑をかけ、周りに心配をかけながらも、4人目の子供が授かりしかも男の子だった時はしばらくは幸せな日が続きました。やっとできた長男で、お姉ちゃんたちもおしめを変えてくれたり、働いていた私の代わりに保育園まで迎えにいってくれたり、みんなで楽しく暮らしていました。

でもそれも長くは続きませんでした。

最初は麻疹の熱性けいれんから始まりました。それが治って次はウイルス性白色便でもけいれんを。

その後、普通に遊んでいるときにけいれん発作を起こしたのでした。

息子は1才を待たずに難治性てんかんという病気を発症したのでした。

息子の闘病生活が始まりました。

息子のてんかんに効く薬はなく、毎晩就寝時のけいれん発作はなくなりませんでした。

当然のように知的に障害が発生、精神にも影響がはいりました。

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上の娘たち、特に三女はまだ小学校1年生、まだまだお母さん恋しい年ごろなのに、弟の病院通いのために余裕のない母のせいで我慢しなければならないことがたくさんあったと思います。娘たちはそれぞれおのずと自立せざるを得ませんでした。それはいいことでもあるけれど、不憫に思うことでもあります。

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倒産して会社を閉めた後、一家離散をした時もありました。債権者からの執拗な電話。

実家に避難していたので、両親に本当に心配をかけました。

三女が鉄棒から落ちて腕を骨折したときは途方にくれました。

田舎に移り住んでいた実家から学校へは30分近く歩いて行ったところ、冬になると風が真横から降る中の登校は都会暮らしの娘たちには地獄だったそうです。(それはそれでいい経験でもあるのですが。)

娘たちの学校の転校手続きもわからないようにする訳ですから、卒業を迎えた次女と三女の卒業証書には名前が入っていません。中学も高校入学も学校の先生と相談しながら進めていったのを思い出します。

そのことは、、一旦こちらに戻ってきて家族で三年間住んでいたところでのことでもあります。

主人は仕事を見つけ働き始めましたが、家計は苦しく、そんな中息子の病院代薬代は大変でした。

それでも、病院をやめるわけにもいきません。その三年間の間に検査入院開頭手術をしてもけいれん発作の原因がわからず、二か月間の入院が無駄に終わったこともありました。

息子が交通事故にあってすんでのところで助けていただいたこともありました。

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ここまででも結構非凡な生活だと思いますがその後も決して平凡な暮らしではありませんでしたが、

東京に戻り少しいい暮らしができるようになり、障害児を持つお母様のお誘いで演劇クラブに入り、毎年公演にでるようになり、子供たち、特に娘たちは都会生活に戻り水を得た魚のように生き生きとなっていました。息子も、てんかんの発作で救急車さわぎはあったものの小学校生活をたのしめるようになっていました。

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ようやく何とか普通に平和に、息子は病気があっても一家揃って幸せな毎日が続きました。

それを壊したのは私自身だったのです。

 

 

 

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